感想『猛スピードで母は』
変に肩肘張らずに純文学を読みたいと思い、近年の芥川賞作を読んでいくという試みを始めている。 ちなみにこれは2冊目(1冊目は『コンビニ人間』)。
例によってAmazonページのあらすじから引用。
あらすじ
「私、結婚するかもしれないから」「すごいね」。小6の慎は、結婚をほのめかす母をクールに見つめ、母の恋人らしき男ともうまくやっていく。現実に立ち向う母を子どもの皮膚感覚であざやかに描いた芥川賞受賞作に加え、大胆でかっこいい父の愛人・洋子さんと小4の薫の奇妙な夏の日々を爽やかに綴った文學界新人賞受賞作「サイドカーに犬」を収録。子どもの視点がうつしだすあっけらかんとした現実に、読み手までも小学生の日々に引き戻される傑作短篇2篇。
表題作は、子供時代の自分を振り返りながら母のことを思い出していく、という体裁でエピソードが展開されていく。 自由に生きながらもシングルマザーとして世間と渡り合っていく母と、それを冷静な視点(といっても愛情がないとかそういうのではない)で見ている娘の慎。
ふとしたことからいじめられるようになった慎は団地の壁面の梯子を登るよう強要される。けっきょく大事には至らなかったが、梯子と壁はある種の刻印のように慎を苛む。 母はその壁を文字通り「乗り越えて」いく。その小さな勝利をきっかけにクラスのいじめとも折り合いをつけていく。
最後のシーン、幸福の徴であるワーゲンの列を追い抜きながら物語は終わる。
年齢の割には老成していて動じることがない慎が、いじめの状況を誰にも相談せずにいる中で、母の行動・言葉に救われていく。 死ぬほどざっくり言うと親子の形は様々だけど色んな愛の形がある・・ということかな。
この小説自体は文体の耳触りも良く、楽しんで読むことはできた。 ただ、これは自分自身の問題として、この手の「日常系純文学」を言葉にする技術が壊滅的に少ないという事実に直面している。
主人公は冷めていて物事に対しても結構ドライに対応するタイプなので、饒舌に葛藤するような描写はほとんどない。 作中の事件も、日常的に起こり得ることばかりで、スペクタクルなシーンはない。 ここから色々読み解いていくのが文学の楽しみ方の一つなのだろうけど、どうにも語るべき言葉が出てこない。
例えば西村賢太の作品のように、視点人物の思いがダダ漏れの小説だったり、日常から逸脱した突飛な事件が起こる作品(最近読んだものだと「コンビニ人間」とか) なら、それらを取っ掛かりにして語る言葉を探すことができる。『猛スピードで母は』には(完全に自分のスキル不足で)明確なものを見つけられていない。
読み方なんてものに正解はないのは承知ではある。ただある程度は読書という行為を能動的に行っていきたいとは思っているので自分自身にとってはそこそこ気になる問題にはなっている。
無理やりまとめるなら、そのような課題を改めて可視化してくれたこの作品に感謝、とでも言うべきか。
まあこのへんは一度ちゃんと考えたいですね。