体罰と感動物語とDV
内田良「教育という病」を読んで。
組体操の巨大化における危険性や部活動における教員の無償労働などに着目し、それらの問題が「教育における感動物語」によって隠蔽されてしまい、検証がなされないことを批判している。
この中で体罰を扱う項目があり、興味深いことが書かれていた。
本書によると、2013年の朝日新聞によるアンケートでは「指導者と選手の信頼関係があれば体罰はあっていいか」という問いに対して62%が「そう思う」「どちらかといえばそう思う」と回答したという。
しかも体罰を受けた経験のある選手のほうが体罰を肯定的に捉えていたという。
暴力の連鎖という問題の向こう側に見えるのは、教師・生徒の「両方」において、教育の現場に暴力を肯定する素地が紛れもなく存在する、という現実だ。
そして両者が体罰を肯定している結果として、体罰にはそれなりの効果があるという認識が教師にも生徒にもあるというのだ。
興味深いと思ったのは、上記をうけた筆者の考え方だ。
「その現実をうけて、暴力に効果があるとしても、もうやめようではないか。暴力に代わる効果的な指導方法を考えようではないか(大意)」
この「暴力の効果」が一定の効果をもたらしてしまうという現実を認めた上で、あらためて暴力を否定する、という姿勢は、従来唱えられてきた体罰批判論に欠けていたものではないだろうか。
体罰肯定論者は、この「一定の効果」を得られることを論拠として体罰を容認している。だから議論が先に進まない。「その先」の議論をするには、まずは「暴力が一定の効果をもたらして”しまう”(でもだからこそ違う方法を考えよう)」ことを認めないとならないだろう。
ぼく個人は運動部的な世界とは無縁に40年以上生きていたこともあり、体罰の有用性なんてものを感じたことは一度もない。体罰(ただの傷害行為だ)を熱血指導とかいって肯定する人たちにはまるで同意できない。
「体罰容認論」は一種の共依存だとぼくは思う。体罰という名の暴力を受けている、という状況を容認するには、暴力によって得られる成果を見いだすことで、暴力の正当性を示さなくてはならない。だから選手は耐えるし頑張るし、しばしば結果も伴う。下手に結果が出てしまうからやめられない。指導者も選手もその成果を維持するためにさらにスパイラルに入っていく。感情や師弟関係をドーピングしているようなものだ。なんというか、正道とは言いづらい。
「おまえのためにやってるんだ」と言って人に暴力を振るい、「暴力を振るわれるのは自分に原因がある」として状況を肯定する(せざるを得ない)。これってDVやいじめと同じ最悪の状況だ。
成果を出すために正道を捨て外道を往くことも辞さない、のもいいだろう。でもそれはその道の鬼を目指す人の中だけで双方の合意の元でやるべきことで、学校の指導で行うことではない。
これはスポーツの世界だけでなくて、企業内にも間違いなく存在する。
リアル暴力に訴えることはそうそうないとは思うが、潜在的な「体罰文化」「体育会文化」的なものはあるし、容認者も少なからずいるのではないだろうか。
もちろん企業には指揮系統が必要だし、突き詰めると結果として軍隊的にならざるをえないとは思う。その成り立ちから考えると近代における兵士と労働者は兄弟みたいなものだ。しかしだからこそ、企業の構成員自身(マネージャーもスタッフも)が組織自体が持つ暴力性を自覚する必要がある。
「特攻志願者は一歩前へ」と言われて断れない状況を作らされた挙句に散華、とか、程度の違いはあれ有り得ない話ではない。そんな状況に巻き込まれたり、巻き込んだりすることのないよう、気をつけていきたいものだ。