瓶詰ブログ

見た目は四十、心は中2

小山田圭吾問題:インタビュー記事の原文を読んで考えたこと

当エントリーはいったん書きあげて公開したのですが、その後様々な意見に触れたり原文を読み直したりして本件に関する考えが多少変化しました。そのため全面改稿して再アップします。

※さらに一部加筆修正しました(2021/7/26)

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以下の私の意見は「インタビュー内容が事実ならば」という前提に基づいています。

念のため書いておきますが、記事が事実だとするならば小山田氏はいじめ(虐待)の加害者であることは間違いないことで、その点は擁護できるものではありません。

 すでに誰もが知っている騒動ですが時間が経ってから読まれることもあるかもしれないので問題の概要をリンクしておきます。

 www.asahi.com

 

概要としてはリンク先の記事の通りでまあひどい話ではあるのですが、今回の炎上の発端そのものに対する疑義が各方面から上がってきています。

例えば吉田豪氏や元『Quick Japan(以下QJ)』編集部の北尾氏は巷で盛んな非難の論調とは違うトーンで当時を振り返っていて、確かになるほどと思う部分もありました。

 

久田将義吉田豪の噂のワイドショー

youtu.be

 

 北尾氏のブログ。ただし期間限定公開とのこと。↓

live.millionyearsbookstore.com

 

私は1995年当時、くだんののQL (Vol.3)を実際に買って読んでいました。たしかに「鬼畜系・悪趣味系」がそこそこの市場を得ていた当時でも結構なインパクトがあり、今でも強く記憶に残っています。さらにネット上では小山田圭吾いじめ問題はちょくちょく浮上していたこともあり何となく「小山田圭吾はヤバい」という感覚のまま20数年間が経っているという現状があります。そんな中で今回の騒動が起こり「ああ小山田圭吾か、まあそうなるよね」と、炎上すること自体はやむを得ないことだと思っていました。

今回、上記吉田氏や北尾氏の発言にあたって再度原文(上述の北尾氏ブログにQJ記事全文のキャプチャ画像あり)を読んでみました。あらためて読んでみると自分の記憶による印象とは異なっている部分もかなりあるというのが正直なところです。もちろんひどい内容であることには変りないのですが。ただとはいえ現状の特にマスメディアやネットの意見――錦の御旗を掲げて小山田氏を叩く論調――の論拠について、再度検討したほうがよいのではないかという結論に至りました。

原文を再読した上の結論としてはやっぱり小山田氏はいじめ加害者であると思います。形はどうあれ(二次被害が起こらない前提で)本人なりに何らかの反省や総括、謝罪は必要でしょう(公に発信するかは別として)。

とはいえ単純に加害者を直ちに糾弾せよ!というのも間違いで、加害者という立ち位置にもグラデーションがあることには留意する必要はあります。もちろんグラデーションに留意したところで彼の行為はやっぱりダメなんですが、批判するならするでちゃんと根拠を調べたうえで発言しなくてはならない、という姿勢は保ちたいところです。私はあらためて検証した結果「まあやっぱりダメだよね」という思いに至りました。

そのため、オリンピック開会式の音楽担当者の辞任は仕方ないと考えています。いろんな意見はあると思いますがオリンピックのような「多様性と調和」を謳い税金を大量に投下した全世界的なイベントで、子供の時の話とはいえ障害者虐待の過去を持つ人間がセレモニーに関わるのはさすがに厳しいのではないでしょうか。

そして辞任したからといって過去の清算ができたわけでもありません。オリンピック開会式の音楽担当者から降りました、というだけで被害者には何の関係もないでしょう。

上記をはっきりさせたうえで、再読の結果私が気になった、小山田氏を批判する際に気をつけるべき点を以下に記します。 

  • 虐待エピソードの初出である『ロッキング・オン・ジャパン 94年1月号(以下ROJ)』掲載のインタビューで小山田氏がリップサービスで話を盛った、さらに編集部が面白おかしく脚色した可能性がある
  • ROJは元々取材対象の原稿チェックがないことで有名で、小山田氏側が最終確認しないまま世に出た可能性がある
  • 今回の炎上の発端となったブログ(「孤立無援のブログ」)は小山田氏を告発する強い意図で編集されている

小山田圭吾における人間の研究 - 孤立無援のブログ

  • いっぽう北尾氏のブログは小山田氏と当時の編集部を擁護する姿勢で語られている

いじめ紀行を再読して考えたこと 02-90年代には許されていた? | 百万年書房LIVE!

  • 北尾氏のブログはある種ロマンチックというかかなり主観に依っている記述も多い。
  • 実際のQJの原文にあたるといじめ被害者とは中高まで交流があり(いじめ加害・被害の関係は小学校までで終わっていたという)、小山田氏視点では高校卒業まで良好な関係ではあった。ただ、それが対等な関係だったかどうかはちょっと分からない
  • 中高になって小山田氏は被害者である「沢田君」の「ファン」だったと述べているがこの言葉のニュアンスは難しい。単純に好きだったのか、それとも小馬鹿にしたものなのか。おそらくその両方なのではないかと思う
  • 被害者からもらった年賀状をバカにしていた、という批判があるが確かに「(笑)」の文脈で話していたものの文章を読むかぎりではこき下ろすような調子ではなかった
  • 自慰行為強要の件は小山田氏ではなく中学生の時に「限度を知らないタイプ」の先輩が実行したもので、小山田氏は傍観者の立場で「かなりきつかった」と感想を述べている。もちろんいじめ行為の傍観者もいじめに加担している、という見方は正しいが小山田氏も異議を唱えるのが難しい状況だったのではないか(QJ
  • 「ウンコを食べさせた上でバックドロップ」の件は小山田氏は「アイデア担当」で実行はしていない。ある意味より悪質とは言えるけど(RJ)
  • 段ボール箱に閉じ込めてガムテープでぐるぐる巻きにして黒板消しの粉をかけた(QJ
  • 体育倉庫のマットに巻いたりジャンピングニーパットをした。太鼓クラブの時期の話と思われるので小学生時代か(QJ
  • 小山田氏は高校生の頃ダウン症児を「皆同じ顔」と揶揄した(QJ
  • 在日コリアンのクラスメイトとのエピソードはあるが、習慣の違いを面白く話してはいた。また「スパイという噂があった(笑)」などとも話しており「人種差別」といえば確かにそうかもしれないが、1995年当時の感覚では割とカジュアルに言えてしまっていた状況だったとは思う(良いことではないが)
  • もともとはいじめ被害者と小山田氏の対談を企画していたらしいが、当然オファーできずに企画が倒れ、やむなくインタビューになったらしい
  • いじめ被害者へのオファーの様子も描かれているが、この部分は読んでいてかなり不快にさせられる。「小山田君とは仲良くやっていると思っていた」と親御さんが言ったということは、被害者家族のなかでは小山田氏は友人として認知していたのかもしれない。それをわざわざ否定しにいったというのは本当に余計なお世話だろう
  • ということはつまり少なくとも高校卒業時には「いじめ被害者・加害者」の関係ではなくちゃんとした交友関係にあったのかもしれないし、単に親御さんがいじめの状況に気づいていなかっただけなのかもしれない。どっちにしても今の状況は被害者の親御さんには本当につらいだろう
  • QJの記事は小山田氏のエピソードを素材としつつ、随所にライターのメタ視点のテキストが差し挟まれる構成になっている。小山田氏のエピソードそのものもさることながら全体の論調はこのメタ部分の記述に大きく左右されている。「いじめってエンターテインメント」などの記述もあり、まさにいじめを消費しようという体での編集だといえる。QJ編集長の釈明文は出ていたが、フェアな論争のためにはこのQJの記事を書いたライター氏の意見も聞く必要がある
  • 北尾氏によればこのライター氏もいじめ被害者だったとのことで、この記事が単にいじめを肯定する意図で作られたものではないはずだ、と考えているようだが作者からのコメントがない以上それは何とも言えない。ただ作者の背景というメタ情報がない状態であればやはり内容としては厳しいものがあるし、もっと言えば作者がいじめ被害者だったかどうかというのは記事そのものや小山田氏の行動の評価とは別の問題ではある

繰り返しますが小山田氏がいじめ(障害者への虐待)の加害者だったのは事実なのでしょう(今回の記事が正しいのであれば)。仮に直接実行せず「アイデア担当」だったとしても加害者の誹りを覆すのは難しいと思います。むしろ考えようによってはよりタチが悪いともいえなくもないでしょう。

吉田氏、北尾氏はともに小山田氏寄りというか、彼を理解しようとする立場での発言であることは否めません。ただ、彼らのブログや動画を見たうえで再度原文を読んでみると、現在の報道やネット言論の状況は特に小山田氏ファンでもない自分から見てもちょっとフェアなやりかたではないと思えるのです。

いや、もちろんそれを以て小山田氏の過去の行為が許されるわけではありません。ただ報道やネット言論の激しさを見る限り、原文にあたらないまま拳を振り上げている人はかなり多いと考えられます。原文を読めば大枠の結論は変わらないまでもその言葉遣いは少し変わってくるののではないでしょうか(繰り返しますが彼がいじめ(虐待)の加害者だった時期があったことには変わりありません)。特に最後に書いたライターのメタ記述について。この構成によって読者の読み方が誘導されているところが大きいので、ぜひ原文にあたってほしいです。

あまりワイドショーを見ないのでサンプルが少なくて申し訳ないですが、狭い観測範囲での個人的な印象としては「原文を読んだ」というコメンテーターのうち何人が本当にインタビュー全文(切り抜きでない)を読んでいるのかはちょっと疑問を感じます。

小山田氏問題を受けて我々はどうすべきか

今、小山田氏は26年前の発言をもとに断罪されています。インタビューが事実なら非難されて当然ですが、さすがに過剰な中傷も少なくありません。ご子息にまで凸するというのは明らかにおかしいといえます(ただし従兄弟の方の擁護の仕方は最悪だったし、周囲のミュージシャンの対応もどうかと思います。身内にとってはイイ奴なのかもしれないですね)。

我々は小山田氏の直接の被害者ではないので、本来は許す/許さないの判断をする立場にはいません。それは被害にあった方が決めればいいことです。小山田氏のTwitterアカウントに批判コメントを並べたところで何も変わらないし、このエントリーも突き詰めれば無意味です。憤る気持ちはわかるけれど彼に憎しみをぶつけても世の中は変わりません。

過去の虐待が発覚した=こいつは敵だ=我々は敵を叩いてよい=完膚なきまで叩き潰す、という図式。これはまさにいじめや差別の構造と同じです。

とはいえ世の中には小山田氏の過去の加虐行為に近いことをしていながら「俺も昔はやりすぎたよ」的にのうのうと暮らしている人も大勢いるでしょう。そう思うと生贄の羊たる小山田氏と世の無数の加虐者たちとの処遇のギャップにやるせない気分にもなります。

90年代のサブカル市場の受け手として図らずも小山田氏と袖すり合ってしまった身としては、勝手な考えだけど小山田氏には何らかの説明をしてほしいです。もちろん加害者への二次被害の問題もあるので軽率にはできないと思うし、実際に釈明したところで鬼のような非難が殺到するのは間違いないでしょう。何を言っても文句をいう人は絶対にいます。それならばせめて、対外的に発信しないまでも内省してほしい。断られるかもしれないけど被害者本人に謝罪してほしい。当事者の間だけのやりとりでいい。いじめ(生徒間の虐待)を本当に悪いことだと思っているなら啓蒙的な社会奉仕とかの形でもいいので何らかのアクションを起こしてほしい。偽善の非難も受けるでしょうが自身の行動を総括することが求められると思います。

そしてこれは当時の未熟な正しさで90年代の「悪趣味系」コンテンツを受容していた我々も同様です。若気の至り、ではあるが一度それを言語化して自身の「正しさ」をアップデートしなくてはなりません。もちろんすべての加虐経験者たちも。

僕は今のグローバルポリコレが全て無謬の正しさを持っているとは思っていません。一方で我々にこびりついた旧来の価値観もあらためていく必要があると考えています。それらは度々衝突しながら徐々に最適化されていくはずです。大袈裟かもしれないけどそうやって人類は進歩してきたのでしょう。日本でもたかだか76年前までは女性に選挙権はなかったし60年代アメリカでは公民権運動も行われたしつい20年前には日本でも駅構内で堂々と煙草を吸っていたりしていたのだから。

SNSが発達した現在、過去の軽率な行動・言動が不意に襲い掛かってくるというケースは小山田氏のような有名人だけでなく今後我々のような一般人にも増えていくでしょう。

炎上などはしないにしても現在のように正しさが高速でアップデートされている世界では「なんであのときこんなことを」的な事例は十分起こりえます。

そういうときに心の平穏を保つために、自身の正しさをメンテナンスすることはグローバルポリコレ時代を生きるために必須の振る舞いになると思います。

 

参考:


www.ohtabooks.com

 

rockinon.com

 

norikazu-miyao.com

 

小山田氏のTwitter その1

Cornelius Info on Twitter: "東京2020オリンピック・パラリンピック大会における楽曲制作への参加につきまして… "

 

小山田氏のTwitter その2 

 Cornelius Info on Twitter: "東京2020オリンピック・パラリンピック大会楽曲制作参加につきまして… "